天の父母様聖会(旧統一教会)は『韓民族選民大叙事詩』という書籍を新聞広告によって大々的に広報した。一般大衆には歴史の秘儀として隠されてきた真理を新たに明らかにしていると宣伝している。信徒たちに対しては集団催眠と洗脳に近い研修を通じて愚民化された独生女信奉者に育成している。この本は韓民族5千年の歴史が全て「独生女」韓鶴子総裁を迎える為の準備過程だったという荒唐無稽な主張を載せている。古代史研究者としてこのような歴史歪曲をこれ以上看過する訳にはいかず、その虚構性を一つ一つ明らかにしたい。

清州韓氏箕子後裔説の実体
本書の核心的主張の一つは、清州韓氏が古代の箕子(きし)朝鮮の末裔であり韓民族の「甲種族」だというものだが、しかしこれは完全な虚偽である。

歴史の記録を調べてみると、高麗時代まで清州韓氏が箕子の子孫であるという記録はどこにもない。むしろ『高麗史』には清州韓氏の始祖が箕子ではなく韓康(ハン・ガン)という人物として記録されている。では、いつから清州韓氏が箕子の子孫であるという主張が出てきたのだろうか。

驚くべきことに、これは朝鮮王朝光海君時代の17世紀初頭に初めて登場する。1617年に刊行された『清州韓氏世譜』で突如として箕子後裔説が現れるのである。何故このようなことが起きたのだろうか。壬辰倭乱(文禄の役)以降に中華思想が高揚し箕子を崇拝する雰囲気が醸成されたが、この時に一部の家門が政治的利益の為に自らを箕子の子孫だと主張し始めたのである。

さらに荒唐無稽なのは、18世紀末からは箕子からさらに進んで中国の黄帝軒轅(こうていけんえん)にまで系譜を拡張し、中国古代皇室の子孫だと主張した点である。これは歴史的根拠が全く無い完全な創作である。

さらに独生女論は自ら深刻な論理的矛盾に陥っている。天孫思想を盛り込んだ檀君神話の父系家父長制を克服すべきと主張しながら、肝心の独生女血統の正統性は韓鶴子総裁の父系である「清州韓氏」の悠久の歴史と系譜に求めている。初期の出版物である『真のお母様の生涯路程』(2012)と『平和の母』(2020)では、祖母の趙元模(チョ・ウォンモ)と母の洪順愛(ホン・スネ)に連なる「母系」血統を中心に独生女誕生の正当性を説明したが、しかし『韓民族選民大叙事詩』に至って突如として母系起源説をこっそり降ろし、父系起源説を前面に推し立てる矛盾を犯している。 男性中心の父権制を批判しながら、自らの教理的根源を父系族譜に見出すこの二重的な態度は、その主張の虚構性を自ら証明している。

韓氏朝鮮説の虚構性
『韓民族選民大叙事詩』はまた、古代朝鮮が「韓氏朝鮮」であったと主張し、これを裏付ける為に王符の『潜夫論』や李圭景(イ・ギュギョン)の『五洲衍文長箋散稿』、李丙燾(イ・ビョンド)の『韓国古代史研究』などを引用するが、しかしこれは典型的なつぎはぎ式の引用ミスである。

まず『潜夫論』に登場する「韓侯」は、韓半島とは全く関係のない古代中国の西周時代の諸侯を指し、『詩経』に登場する象徴的人物であり、燕国近郊の中国内陸部に存在した諸侯国である。これを朝鮮半島の古朝鮮と結びつけるのは、中国の「韓」の国と我が国の「韓国」が同一だと主張するのと同じくらい無理のあるこじつけである。

李圭景の場合も同様である。彼は朝鮮後期の実学者として、箕子崇拝思想に基づく観念的な叙述を行っただけであり、実際の歴史的根拠に基づいたものではない。李丙燾の「韓氏朝鮮」論もまた、日本植民地時代の植民史観の影響を受けたものであり、彼自身も他の著作では箕子朝鮮の実在性に疑問を呈している。

天孫降臨神話の荒唐無稽な解釈
さらに呆れるのは、檀君神話などの天孫降臨神話を「独生女」降臨の預言として解釈する部分である。これは神話の基本構造すら理解していない無知の産物だ。

檀君神話をはじめとする東アジアの全ての天孫降臨神話は、明確な三段階構造を持つ。即ち第一に天の神が命令を下し(桓因)、第二に天の男性神が地上に降り立ち(桓雄)、第三にこの男性神が地の女性と結合して新たな国の始祖を生む(桓雄+熊女→檀君)。

この構造は最初から最後まで「天から来た男性神」が主導する物語である。天から直接降りてくる神聖な女性、即ち「独生女」はどこにも登場しない。寧ろ女性(熊女)は地上で選ばれる役割を担うに過ぎない。

興味深いことに、 この構造は文鮮明総裁の「救援摂理史の原理観」と完全に一致する。文鮮明総裁は「神の愛、生命、血統の種は男性であるアダムを通じて垂直的に現れ、女性であるエバを通じて水平的に拡散される」と教えた即ち天孫降臨神話が預言だとすれば、それは「独生女」ではなく「独生子」の降臨である

韓民族セム族起源説の科学的虚構性
『韓民族選民大叙事詩』のもう一つの荒唐無稽な主張は、韓民族が聖書のセム族の子孫であるというものだ。シュメール人がセム族であり、彼らが東方に移住して韓民族になったという主張であるが、しかしこれはあらゆる科学的証拠と真っ向から矛盾する。

言語学的に見ると、シュメール語は周辺のいかなる言語とも関係が証明されていない孤立語である。セム語はヘブライ語やアラビア語の祖先であり屈折語に属する。韓国語は助詞を付けて使う膠着語であり、これも孤立語である。この三つの言語は、いわば英語と中国語とハンガリー語ほどに互いに異なる言語体系に属している。

考古学的にも、メソポタミアから韓半島への移住の痕跡は全く発見されていない。韓国の新石器・青銅器時代の遺物は、シベリアや満州など北方地域の文化との関連性を示しているに過ぎない。

遺伝学的研究結果も同様である。現代韓国人のDNA分析によれば、韓民族のルーツは古代北東アジアと中央アジアの複数の集団が長い年月をかけて混ざり合って形成されたものであって、中東から来た大規模な移民が韓民族のルーツとなったという遺伝学的証拠は存在しない。

東夷族に対する無知な解釈
この主張は「東夷」という言葉を完全に誤解したことに起因する。「東夷」はセム族に由来する特定の民族名ではない。古代から中国の中原地域を占めた諸勢力が、自分たちより東方に住む諸々の異民族を総称して呼んだ一種の別名であった。これは現代の「東洋人」という呼称に類似する。したがって「東夷」をセム族の末裔である単一民族と見なすこと自体が歴史的事実と異なっている。

女神神話の歪曲と目的論的な我田引水
独生女論は、男性中心の檀君神話が「父なる神」を象徴するとすれば、「マゴハルミ」や「ソルムンデハルマン」や「バリ王女」のような女性神話は「母なる神」の存在を明らかにすると主張するが、これは各々異なる起源と文脈を持つ神話を「独生女の降臨」という単一の目的の為に無理やり結びつける典型的な目的論的誤用である。

マゴハルミとソルムンデハルマンの神話は、韓半島と済州島に伝承される太古の巨人創造女神である。素手で山と川を作り、スカートの裾で漢拏山を形作った、混沌の中から世界を創造した宇宙論的叙事詩の主人公である。彼女たちは世界の「起源」そのものであり、未来の特定の人物に備える補助的存在では決してない。独生女論は彼女たちを「独生女」の道を拓く道具に格下げし、神話の原型的意味を破壊している。

バリ王女神話は韓国の巫俗信仰の起源を説明する巫祖神叙事である。捨てられながらも死の病に倒れた両親の為に自らの意志で冥界に赴き生命の水を探し求めて来る英雄的旅路を通じ、生者と死者を繋ぐシャーマンの原型となった人物である。彼女の神聖な力は他者によって備えられたものではなく、自らの苦難と犠牲によって獲得したものである。

これら女神神話の共通点は、男性神に依存しない「女性神性の自律性」にある。しかし 独生女論は、数千年かけて形成されたこれらの神話が唯単に未来に来臨する「独生女」を迎える為に韓民族を精神的に準備させる過程だったと主張する。これは神話そのものの意味を探究するのではなく、「独生女降臨」という結論を神話の中に逆投影する非学術的行為に過ぎない。特定民族の巫俗説話を人類普遍の救済摂理を説明する絶対的根拠とするのは、深刻な論理的飛躍である。

神話の私有化、歴史の道具化
こうした主張が持つ最も深刻な問題は、単なる歴史歪曲を超えている。これは韓民族共同体が数千年にわたって共有してきた貴重な神話と歴史を、特定の宗教教義の正当性を確保する為の道具に転落させる行為である。

神話は一つの民族が共有する巨大な夢であり、我々が何者であり何処から来たのかを知らせてくれる貴重な文化遺産である。しかし誰かがこの貴重な神話を自らの主張を裏付ける為に勝手に変えて歪めようとするなら、それはまるで他人の家の家宝を盗み出して自分のものだと主張するようなものだ。

檀君神話は、古代国家がどのように自らのアイデンティティや権力の神聖性を物語として創り出したのかを示す「権力の叙事」である。それを21世紀の特定宗教指導者の降臨を予兆する秘密の暗号と解釈することは、神話に対する深刻な誤解であり、私たち全員の記憶に対する暴力である。

疑似歴史学の典型的手法
『韓民族選民大叙事詩』は典型的な疑似歴史学(pseudo-history)の手法を見せている。第一に、皮相的な類似性のみに依存する。「シュメール」と「セム」の発音が似ているとか、「韓候」と「韓国」の「韓」の字が同じであるといった論理である。第二に、つぎはぎ式の引用を行う。複数の文献の文章を、前後の文脈を無視して自分たちに有利な部分だけを選んでつなぎ合わせる。第三に、科学的証拠を無視する。言語学、考古学、遺伝学などの研究成果は意図的に無視し、自らの信念のみに依存する。

これは学問ではなく信仰である。それも盲目的な信仰だ。信仰そのものは個人の自由であるが、しかしその信仰の為に歴史的事実と神話の内的論理を歪めてはならない。

学界の厳粛な審判を待つ
天の父母様聖会がこのような本を高価な広告費を支払ってまで大々的に宣伝する勇気はどこから来たのだろうか。恐らくこれまで教団内部だけで通用する講義と集団催眠に慣れ親しんでしまい、対外的にも通用すると錯覚したようだ。

しかし、これから関連学界や諸団体から疑似歴史学として厳重な理論的攻撃を受けることになるだろう。その時は教団信者への洗脳講義や集団催眠では通用しない。歴史学、考古学、言語学、神話学、文化人類学など様々な学問分野の専門家たちが黙ってはいないだろう。

真の霊的自由に向けて
もはや統一教会でも家庭連合でもない、 天の父母様聖会に名称を公式に変更した独生女教に生け捕られた祝福家庭たちは、自分たちが真理だと洗脳されている叙事がどれほど虚構的な土台の上に立っているのかを直視しなければならない

歴史は信仰の対象ではなく探究の対象である。神話は宗教的象徴として受け入れることはできても、それを特定の教理の証明の道具に歪曲してはならない。私たちは神話と歴史を学問的厳密さの中で正しく理解しようとする努力を始めなければならない。

それこそが盲目的な信仰から抜け出て、真の知的・霊的自由に向かう第一歩となるだろう。『韓民族選民大叙事詩』のような虚構的叙事に騙されず、厳密な証拠に基づく歴史理解の重要性を共に考えてみよう。


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