有志の方から寄稿文が寄せられたので、ご紹介します。聖書が示す救いの本質を理解するための一助となる内容です。ぜひ、ご一読ください。


はじめに

「宗教的な儀式に参加することが救いにつながるのか。」
「礼拝に参加していれば安心なのか。」
「宗教的な功績が多い人(多く献金した人など)が救われるのか。」

このような問いは、現代まで繰り返し問われてきました。

聖書全体を見ると、その答えは一貫しています。

人は宗教的な儀式や功績によって救われるのではなく、神が示された真理を信仰によって受け入れることによって救われるということです。

もちろん、宗教的な儀式には意味がありますが、それは救いを得るための条件ではありません。

宗教的な儀式や功績によって救われると考えるならば、それは、聖書の教えから逸脱する事になります。

今回は、聖書が一貫して語る救いの本質について考察します。

1.ノアの時代に救われたのは神の言葉を信じた者

ノアの時代、人々は暴虐と悪に満ちていました。

創世記6章11~13節
11 時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。
12 神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。
13 そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。

そこで、神はノアに箱舟を造るよう命じられます。そして、ノアとその家族は救われました。

彼らが救われた理由は、宗教的な儀式を行ったからではありません。

ただ神の言葉を信じ、その言葉に従順に従ったからです。

一方、多くの人々は神の警告を退けました。

ここに、聖書全体を貫く最初の大きな分岐が現れています。

それが、真理を受け入れる者と、真理を拒む者です。

2.アブラハムは、割礼より先に信仰があった

神は、アブラハムを義と認められました。

創世記15章6節
6 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

しかし、その時点でアブラハムはまだ割礼を受けていませんでした。

パウロはこの事実に着目し、以下のように説きました

ローマ人への手紙4章1~3節
1 それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。
2 もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。
3 なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。

神は創世記17章で、アブラハムに契約のしるしとして割礼を命じられました。しかし、その前の創世記15章で、アブラハムは神を信じ、それが義と認められていました。パウロはこの順序に着目し、「人が神によって義とされるのは、宗教的儀式によるのではなく、信仰によるのである」と説明しています。

つまり、割礼は救いを得るための条件ではなく、すでに神との契約に入ったことを示す「しるし」だったのです。

すなわち、宗教的儀式がアブラハムを義としたのではなく、アブラハムの神への信仰が、神がアブラハムを「正しい者(義)」と認めた最大の理由という事です。

3.旧約の預言者たちが問題にしたのは「形式だけの信仰」

旧約の預言者たちは、祭儀そのものを否定したのではありません。

彼らが、当時のイスラエルの民に警告したのは、

✅神殿では礼拝するが、神に従わない
✅犠牲は献げるが、偶像を礼拝する
✅宗教行事には参加するが、弱い者を虐げる

という生き方に対してでした。

神が求められたのは、祭儀などの「形式だけの信仰」ではなく、神の教え(真理)に従う「従順な信仰」でした。

4.イエス様が説いた「分裂」の意味

イエス様は以下のように言われました。

ルカによる福音書12章51~53 節
51 あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。
52 というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、
53 また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。

この聖句はとても衝撃的です。イエス様は、「平和」ではなく「分裂」をもたらすために来たと語っています。もし、この聖句を誤って解釈すると、イエス様が争いや分裂を望んでいるように解釈してしまいそうですが、もちろん、そうではありません。

イエス様は、まず、「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。」(ルカ 12:49)と言われています。

ここでの「火」とは、「真理」の事です。つまり、イエス様は、真理を宣べ伝える為に来たと言われます。その結果、「分裂」や「対立」が起こると語っているわけです。

これは、どういう事かと言いますと、「真理」の前では、中間位置はないという事です。

真理を前に、人は、「真理を受け入れるのか」それとも「真理を拒絶するのか」の選択に迫られます。それゆえに、イエス様は、同じ家庭の中であっても、「父と子」「母と娘」が対立するだろうと言われています。

すなわち、「真理が現れると人は必ず二つに分かれる」という現実を、イエス様は説いているわけです。

イエス様はさらに、以下のように言われました。

ヨハネによる福音書14章6節
6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

救いを分けるのは宗教的な儀式や功績ではありません。最終的に救いを分けるのは、キリストに属するのか(真理の側に立つのか)、それともキリストを拒むのか(真理を拒絶するのか)なのです。

5.パウロが教えた「信仰による義」

パウロは、以下のように言いました。

ガラテヤ人への手紙2章16節
16 人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。

ここでいう「律法の行い」とは、

✅割礼
✅清めの儀式
✅食物規定
✅宗教的義務

などを守ることで義を得ようとする考え方です。

パウロは、それらが救いの条件ではないことを明確にしました。

また、パウロは、以下のようにも言っています。

エフェソ人への手紙2章8~10節
8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
9 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。
10 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。

「キリスト・イエスにあって造られた」とは、キリストが示す真理を受け入れる事によって「新しい人」として造り変えられたことを表しています。

つまり、パウロが説く本来の救いとは、単なる宗教的儀式による罪の赦しなどではなく、人格や生き方そのものが新しくされることなのです。

また、「良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さった」とあるように、神様は、真理を通して、

✅人を愛するように
✅為に生きるように
✅正義を行うように
✅神を証しするように

私達が「新しい人」として生きる道を備えて下さったとパウロは言います。

すなわち、パウロが説いたのは、宗教的儀式や功績によって人は義とされるのではなく、信仰によって人は義とされる。そして、義とされた人ならば(真理を受け入れて新しい人として生まれ変わったなら)、当然の事として、良い行いをするものであるという事です。

つまり、本物の信仰とは、人を内面から変え、その結果として良い実を結ぶという事です。

ちなみに、パウロの教えを「人は、行いによって義とされる」と説くヤコブ書(ヤコブの手紙)の教えと矛盾するように感じる人もいるかもしれませんが、これは、それぞれ、扱っている問題が異なっています。パウロは、救いの根拠を語り、ヤコブは、救われた信仰の実を語っています。

・パウロ:「人は何によって救われるのか。」→ 宗教的儀式などではなく信仰によって義とされる。
・ヤコブ:「本物の信仰とはどのようなものか。」→ 本物の信仰は必ず行いを伴う。

つまり、この2人は視点が違うだけで、互いに補い合っています。

パウロの教えを整理すると

1.神はキリストを通して真理を示される
2.人はその真理を信仰によって受け入れる
3.神はその人を義と認められる
4.その人は真理に従う歩みを始める
5.その結果、良い行いが実として現れる

となります。

すなわち、「人は信仰によって義とされる。そして、その信仰は必ず良い行いを生み出す(良い実を結ぶ)」というのが、パウロの教えの核心であり、決して行いを軽視した訳ではなく、行いを「救いの条件」ではなく、「救いの実」として極めて重視していたと言えます。

6.イエス様が説いた羊と山羊の分離

イエス様は、終末に、人々は羊(救われる者)と山羊(滅びる者)に分けられると言われました。(マタイによる福音書25章)

羊の群れの人々は、

✅飢えた者に食べ物を与え
✅病人を見舞い
✅困っている人を助けました

しかし、彼らが救われたのは、これらの行いによって救われたのではありません。

その行いは、彼らがキリストに属する者であることを示す(真理の側に立った事を示す)実でした。

一方、山羊の群れの人々には、その実がありませんでした。

つまり、終末の分離の審判で問われるのは、真理を受け入れた信仰が、実を結んだかどうかなのです。

すなわち、キリストに属する者であることを示す(真理の側に立った事を示す)実を結ばなかった山羊(滅びる者)の群れとは、キリストによって示された真理を歪曲し、拒絶した者達の事なのです。

7.ルターが「ローマ人への手紙」から再発見した福音

16世紀、修道士だったマルティン・ルターは、「どうすれば神の前で義と認められるのか」という問いに苦しんでいました。

彼は、

✅長時間の祈り
✅断食
✅罪の告白
✅修道生活

など、当時の教会が勧める宗教的実践に真剣に取り組みました。

しかし、どれだけ努力しても心の平安を得ることはできませんでした。

その後、ルターは聖書を教える神学教授となり、パウロ書簡の中でも神学的に重要とされ、アウグスティヌスなど歴史的にも多くの人物に影響を与えた「ローマ人への手紙」を研究する中で、大きな転機を迎えます。

特に、ルターはローマ人への手紙1章17節を深く研究します。

ローマ人への手紙1章17節
17 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。

そこで彼は、「神の義」とは、人間が努力して獲得する義ではなく、神がキリストを信じる者(真理を受け入れる者)に対して恵みによって与えてくださる義であることを悟りました。

ルターはこの体験を、「まるで天国の門が開かれたようだった」と振り返っています。

8.なぜルターは免罪符を批判したのか

当時のカトリック教会では、免罪符(贖宥状)が売られてました。

本来、贖宥(しょくゆう)は教会の悔い改めに関する制度でしたが、実際には「献金をすれば罪の罰が軽くなる」「故人のためにも功徳が及ぶ」として受け取られるような運用が広がっていました。

ルターは、「ローマ人への手紙」を通して福音を理解したとき、このような考え方は聖書の教えと相容れないと確信しました。

もし人が、

✅お金を払うこと
✅宗教的な功績
✅宗教的な儀式

によって救われるなら、「神がキリストを信じる者に恵みによって与えてくださる義」は失われてしまいます。

つまり、「神の義」とは、宗教的な儀式や功績によって獲得するものではなく、キリストを信じる者(真理を受け入れる者)を、神が『義なる者(神の民)』として受け入れてくださるという事なのです。

そこで、1517年にルターは「九十五か条の提題」を公表し、免罪符の販売や救いを宗教制度と結び付ける考え方を厳しく批判しました。

彼が守ろうとしたのは、「人は信仰によって義とされる」という、パウロが語った福音そのものだったのです。

また、お父様もルターの宗教改革を天の摂理と捉えていました。

「中世の封建社会型は誰が崩壊させたのでしょうか。天が崩壊させました。神様は、ローマ教皇庁を中心としてみ旨を成そうとされたのですが、その教皇庁が腐敗していくので、それを滅ぼされたのです。天を信じる人たちがかえって天倫のみ旨に背反するようになるので、人本主義思想を立てて彼らを打つようになったのです。そのような中でも神様は、摂理の基点を失わないために、天を心配する一人の人、ルターを中心として宗教改革を起こしました。」

9.まとめ―聖書全体が語る救いの本質

聖書全体を通して見ると、一つの大きな流れが見えてきます。

✅ノアは神の言葉を信じて救われました。
✅アブラハムは神を信じ、それが義と認められました。
✅預言者たちは形式的な祭儀よりも神への従順を求めました。
✅イエス様は、真理を受け入れる者と拒む者とに人々が分かれることを語られました。
✅パウロは、人は信仰によって義とされると教えました。
✅ルターはローマ書を通してこの福音を再発見し、宗教的儀式や功績による救いという考えに異議を唱えました。

このように、聖書が一貫して示しているのは、人は宗教的な儀式や功績によって救われるのではなく、神がキリストにおいて示された真理を信じ、その真理に従うこと(真理の側に立つ事)によって救われるということです。

そして、その信仰は決して観念的なものではありません。本物の信仰は、必ず愛と従順という実を結びます。

すなわち、最終的に終末の裁きの場で明らかになるのは、その人が真にキリストに属し、真理に従った歩みをしてきたかどうかなのです。

残念ながら、現在、第3アダムである文鮮明真のお父様をメシヤとして信じて来た統一の群れは分裂しています。これはまさに、イエス様が言われたように、真理を受け入れる者と拒む者とに分裂したという事なのです。

今、私達に問われているのは、聖書や原理が説く「男性メシヤ思想」に従うのか、または、現在のUCが説く「女性メシヤ思想(独生女思想)」に従うのかということなのです。

しかし、中には、以下のように言う方もいる事でしょう。

「女性メシヤ思想(独生女思想)こそ、聖書や原理に代わる新しい真理だ」

しかし、アモス書3章7節には、以下のようにあります。

アモス書3章7節
7 まことに主なる神は、そのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。

まさに、神様は、ご自身の計画を実行される前に、預言者を通して宣言される方なのです。逆に、宣言されていない事は、何事もなされない方です。お父様も以下のように言っておられました。

「アモス書三章七節には、『主なる神は、そのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない』と記されています。神は御自分の代身者を選び、その人を通して御計画を宣言されます。聖書の歴史の中で神はいつもそうされてきました。」

では、神様は、女性メシヤを誕生させると宣言しているでしょうか?

私が知る限りでは、聖書にそのような宣言(聖句)は、一切見当たりません。ならば、そのような事を神様が実行されるはずはありません。また、パウロは、「聖書を越えてはならない」(一コリ 4:6)と警告しました。これは、聖書が言っていないことを教義(真理)とする事への警告です。

聖書を見れば明らかなように、神様は、宗教的儀式や功績によって、その人を「義なる者(正しい者)」とは認めません。神様が、「義なる者(正しい者)」と認めるのは、どこまでも真理を受け入れ、真理の側に立った者だけなのです。

イエス様が、終末に羊(救われる者)と山羊(滅びる者)に分けられると説いたのも、まさに「真理の側に立った者」と「真理を歪曲し、真理を拒絶した者」とに分けられるという事なのです。

そして、真理は、必ず一つなのです。ONE TRUTHです。どちらも真理という事は、あり得ません。どちらかが真理ならば、もう一方は、偽りなのです。

また、黙示録には、最終的に新しいエルサレム(永遠の神の御国)へ入場できる者は、「小羊のいのちの書に名が記されている者だけ」(黙21:27)とあります。

「小羊のいのちの書に名が記されている者」とは、まさにキリストに属し、真理を受け入れた者(真理の側に立った者)の事です。残念ながら、どんなにたくさん献金をして、毎週礼拝に参加し、多くの宗教的儀式を行ったとしても、真理を拒絶すれば、小羊のいのちの書に名が記される事はありません。

また、どんなに人を愛し、為に生き、清く生きたとしても、それが、「小羊のいのちの書」に名が記される条件には、なりません。もちろん善なる行いは大切ですが、それは、「行いの書」に記される事であって、どこまでも、真理を受け入れた者(真理の側に立った者)だけが、「小羊のいのちの書」に名が記されるのです。

つまり、新しいエルサレム(永遠の神の御国)に入場できる者とは、キリストによって示された真理を受け入れる信仰によって、神に義とされた者(神の民とされた者)だけなのです。そして、これこそが、聖書が語る救いの本質なのです。

キリストの十字架での出来事は、この事をよく表しています。キリストの十字架の左右には、二人の犯罪人が十字架につけられていました。

左側の強盗はイエス様を罵りましたが、右側の強盗は、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」(ルカ23:40~41)と自らの罪を認め、イエス様の無実を訴えました。

さらに、「イエスよ、あなたが御国においでになるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42)と信仰を告白しました。

すると、イエス様は、以下のように言われました。

ルカによる福音書23章43節
43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

これは、右側の強盗に対して「あなたは救われる」という宣言であり、また、神によって、義なる者(神の民)として認められた(真理の側に立ったと認められた)事を示しています。

この場面は、聖書が示す救いの本質を象徴する出来事として、とても有名な場面です。すなわち、この場面は、「神は真理(キリスト)の側に立つ者を、ご自身の民として受け入れられる」という福音の本質を示す代表的な出来事と言えるでしょう。

それでは、最後に問いたいと思います。

「あなたは、今、本当に真理の側に立っていると言えますか?」

終末の今こそ、真剣にこの問いに向き合ってもらいたいと思います。

終りの日がいつ訪れるのかについては、以下の記事をご参考ください。
https://align-with-god.com/blog/archives/2538


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